「大智度論巻十二」に、” 乞眼のバラモン ”が説かれています。
釈尊の十大弟子で「智慧第一」と称された「舎利弗」が六十劫という、とてつもなく長い間、菩薩道を修行し布施行 をしていた時、見ず知らずのバラモンが舎利弗の眼を乞いにやってきた。「これも仏道修行。」と、舎利弗が自分の片目を取り出して与えると、バラモンはその目の匂いを嫌い、唾をかけて地面に捨てて踏みつけました。これを見て舎利弗は「このような衆生はとても救い難い、自分さえ生死を脱すればよい。」と菩薩道を退転し、小乗の考えに堕してしまいました。それゆえに舎利弗は成仏ができませんでした。
「釈尊十大弟子」の筆頭であった舎利弗でさえ、眼前で自身の真心を踏み躙られたらブチギレた。しかも「智慧第一」の舎利弗でさえもです。それだけ成仏する事の難しさ、仏道修行の持続の困難さを表しています。
このバラモンの行為は、舎利弗の修行が進んでいるのを見た”第六天の魔王”が、それを妨げようとして、「バラモン」の姿に身を変えて現れたとされています。
我々だったらどうでしょうか?舎利弗と同じ立場であったら、殆どの人が舎利弗と同じ行動をとってしまうんではないでしょうか?その以前に、大事な自分の片目を見ず知らずの他人に差し出すなんてできませんよね。それくらいの高貴な布施の行を積んできた舎利弗だったわけです。その彼でさえも最後には精根尽きてしまいました。
我々はまず「乞眼の波羅門」の仏説を我が身に照らし合わせて、相手がどんな態度を取ろうとも「柔和忍辱の鎧を着る」為の日々の仏道修行が必要なのではないでしょうか?「目には目を、歯には歯を」の行動は舎利弗の行動です。最終的には自他共に成仏できません。
「復讐」の命は必ず「報復の連鎖」を生み、最後には双方とも生命が澱んで「三悪道・四悪趣」に支配されることになります。結果、信心の実践も疎かになり、自然と信心から離れる姿を数限りなく見てきました。世界の宗教戦争はその事を我々に教えてくれています。
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてかくの如く礼拝し給う」(松野殿御返事)
日蓮大聖人様の行動に、「罵詈雑言」はありません。「報復」の精神「仇討ち」の精神も皆無です。大聖人様を御本仏と仰ぐなら、法華経を依経とするなら、不軽菩薩の実践しかありません。我々は「乞眼のバラモン」の仏説を机上で学ぶだけでなく、自らが身を持って実践する事が信心ではないでしょうか? 皆さんはいかがでしょうか?