成田家の歴史

生い立ち

  成田家が日蓮正宗に入信したのは第二次世界大戦前になります。私の父方は宮城県石巻出身で元々は地元の禅宗の寺院の檀家だったそうです。私の叔父(故・成田泰耕師)が最初に入信し、牧口門下生として東北広布に邁進しました。当時の組織はタテ線で東京に十二支部あり、全国の学会員はその12支部どれかに所属しておりました。折伏がどんどん進むにつれ、会員も急増し、仙台、大阪、八女に初めて地方支部が誕生しました。その時の仙台支部の初代支部長は後の初代学生部長になる渋谷邦彦氏でした。叔父は支部幹事として折伏に歩きました。

  私の父(故・成田宣道)は第二次世界大戦で海軍の志願兵として戦地に赴く直前に、叔父から折伏を受け、御形木御本尊様を荷物に忍ばせて出兵しました。いくつかの戦艦に乗船し、任務を遂行したのですが、戦艦が砲弾を受け、沈没する前に他の戦艦に乗り換えを命じられて、不思議と一命を取り留めてきたそうです。また、戦艦武蔵に乗り機銃の任務に着いていた時に、アメリカ軍の戦闘機、P51の攻撃を受けて負傷し、銃弾がお尻の右側から左側に尾てい骨をかすめ貫通しました。艦内の軍医から、「あと1センチ内側を貫通していたら、尾てい骨を損傷し、一生涯下半身付随になっていた。不幸中の幸いだ。」と軍医も安堵したそうです。その他にも様々な不思議な体験をし、そこで父は御本尊様の確信を得たそうです。終戦後、草創期の学会男子部で「隊長」として闘い、折伏弘教に奔走しました。

  私の父の兄弟は男六人兄弟で、石巻市飯野川町で生まれました。その六人の内、五人が入信し、末弟の叔父はまだ学生でしたので、その叔父を除いた兄弟四人が、東北の「折伏4兄弟」として草創期の東北広布に尽力しました。

  兄弟三番目の叔父(故・吉田泰雄)は石巻支部初代支部長、公明党宮城県議会議員第一号でした。前出の長兄の叔父(成田泰耕)は戸田先生から僧侶になってくれないかと再三要請をされ、学会第一号の僧侶として日蓮正宗の僧侶として出家しました。その時の出家の師匠は第65世日淳上人猊下です。当時仙台支部の支部幹事をしていたこともあり、信心においては申し分ないという事で、出家後の修行も通常の修行期間より短く優遇されました。その後、群馬県高崎市に建立された勝妙寺の初代住職として赴任しました。

  私の父は兄弟で四番目。戦時中に御本尊様の功徳を体験し、信心の確信を得た父は、終戦後、男子部として折伏弘教に奔走し、「男子部隊長」として闘いました。後に出家を勧められ、六十六世日達上人を師僧として出家し、栃木県小山市の古刹、浄円寺に赴任致しました。

  父が赴任する前は、浄円寺は檀家も少なく、住職が不在の寺院、いわゆる「無住寺院」で本堂も庫裡も荒れ果てて大変だったそうです。地元には旧檀家が数件あるのみで、お寺を維持していける地域ではなかったようです。まだ若かった父は、広宣流布への使命感で、旧檀家の家を一軒一軒周り、再折伏していったそうです。そのうちの数件が学会員となり、住職と一体で折伏に歩いたそうです。そのおかげで、本山が本堂と庫裡を新築してくれたそうです。

浄円寺本堂・庫裡新築落慶入仏式
(中央が日達上人猊下、左端が叔父成田泰耕師、右から2番目が父)

(私の父の兄弟については「忘れ得ぬ同士」(赤い本)に「吉田泰雄」のところで書いて頂いております。また、新・人間革命 第四巻 『春蘭』の章でも描かれております。良かったら読んで下さい。)

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