母について

成田篤子

 私の母、”成田篤子” は福島県いわき市平(たいら)の出身で、若干44歳でこの世を去りました。

母はとっても教育熱心で、厳しさと優しさを兼ね備えた人でした。
旧姓は「斉藤篤子」、タテ線時代、女子部で「平百六十九部隊」の部隊長でした。         (学会の草創期、組織は”タテ線”と言って、折伏してくださった方の組織に着く体制でした。)”

  祖母と母が斉藤家で最初に信心しました。その後、母の兄弟(兄と姉)を折伏しましたそうです。祖父は最後まで信心大反対。祖母が勤行すると後ろから蹴るような人だったそうです。

  母はとても優しく、また非常に厳しい人でした。とりわけ教育には非常に熱心で、自身も女学校に通っていた英才だったので、勉強には特に厳しかったです。お習い事もさせられました。母自身も花道(草月流)の師範でしたし、お琴もかなりの腕前でした。生まれつき左利きだった私は、物心つくころには既に箸の使い方と筆は右利きになってました。将来、僧侶にさせる為だったのだと思います。

  当時は学会の会館も少なかったので、お寺の本堂で学会の会合を行うのが普通でした。また、告別式や法事、御受戒や赤ちゃんの初参りなど、毎日のように法務がありました。法要がない時でも誰かしらお寺に参詣されており、本堂で唱題する方もいれば、信心指導を受けに住職と客間で懇談したりしてました。接客や接待で毎日多忙だったと思います。

  そのように母が病に倒れた当時は毎日忙しく、体の異変があったとしても、我慢強い母は少々の痛みや辛さも辛抱して過ごしていたのだと思います。多忙で病院に行く暇がなかった、という事もあったのではないかと思います。

  どうしようもなくなって病院に行った時には、既に胃ガンがリンパ腺に転移しており、お医者様から父に「余命3週間」を宣告されたそうです。あまりにも急なのと、ショックが大き過ぎて、父は母に告知できなかったそうです。12月4日に入院、8日に即手術でした。転移したリンパ腺の癌には触れられず、胃だけを全摘しました。

  気丈で責任感の強い母は、年末年始はお寺が忙しいこと重々わかっておりますので、先生にその旨を説明し、半ば強引に退院させてもらったそうです。子供の私と妹はそんな事もいざ知らず、母の帰りをとても喜びました。


  お正月が過ぎ、数ヶ月経った4月11日、母の容態が再び悪化し、再入院を余儀なくされました。その時には癌が全身に転移しており、お医者様も手の施しようがなかったそうです。それから約2ヶ月後の6月23日、母は安祥として霊山に旅立ちました。母の生前の功績を讃えて頂き、池田先生より北海道の戸田記念墓園に「篤子桜」と命名した桜を植樹して頂きました。

 母の急逝を聞いた、女子部時代の友人の方々が、母への思いを綴った「文集」を作って下さってました。本当にありがたい限りです。その手記の中に書いてあったエピソードの一つに、浄円寺に来られた際、帰りの小山駅までのタクシーの中で、運転手さんからこう言われたそうです。「いや~、ここ(浄円寺)の奥様は日本一ですよ。私は創価学会は好きじゃありませんけど、あんな素晴らしい人がいるので認識を新たにしてるんです、、。」

この女子部時代の方々の文集もブログに載せていきますので宜しかったら読んでください。母も喜ぶと思います。

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