⑥篤子さんとの思い出

「偲ぶ」追悼文集

 私の入信は昭和三十五年五月、その年に当時区長でした斉藤篤子さんを知りました。

 初めてお宅にお伺いした時、勝手がわからず、階段の下からおそおそる「御免ごめんください。」と何度か声をかけたら、二階から「上がってらっしゃい。」という、優しい声とすばらしい目元の笑顔がのぞいたのでした。それが篤子さんとの初対面でした。

女子部の活動には随分連れて行っていただきました。

 ある時、街はずれで自転車に二人乗りをすることにしました。私は危なさそうでちょっと不安で気が進まなかったのですが、「お乗りなさい。」という、篤子さんの言葉に従い、乗せていただく事にしました。不安的中、2〜3メートルも走らないうちにハンドルを取られ、正面のコンクリート塀のまともにぶつかってしまいました。

 篤子さんは素早く飛び降りたのですが、私は動けば篤子さんが怪我をすると思い、そのまま動かず乗っていたものですから、膝をいやというほどすりむいてしまいました。篤子さん云く、「あなたって随分運動神経がにぶいのね。」でも私は痛さがひどくて事情を説明する余裕などありませんでした。

 このことを通じて後日、篤子さんは御書を通して指導して下さいました。「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」。

 ご自分で学ばれた事は即信心指導に生かされるお方でした。「私も入信したばかりの頃は、お功徳・お罰などと言っていたのよ。」と話されておりました。

 篤子さんは、自己にはとても厳しく、強い意志の持ち主。私など足元にも及びませんでした。また、とても思いやりのある、優しい方でした。

 お会いしたいと思いつつ、とどかぬ方となってしまいました。でもきっと、来世でお逢いできる事を信じて・・・。篤子さんさようなら。

今の世にて 使命果たせし 貴女なれば 篤子桜に 来世をぞ見む

                                     島 和子

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