成田篤子さんが、去る六月二十三日にお亡くなりになったという突然の報にびっくりいたしました。と同時に、栄えある第一六九部隊ーーー旧姓 斎藤篤子部隊長と共に戦いぬいた耀かしき青春時代の日々が、あざやかに思い出されます。
当時、私は高校生でした。平五丁目の”いわたや”の裏の二階が篤子さんの住居いでした。女子部の御書講義があった時に、区長から誘われ、初めて篤子部隊長にお会いしました。とても品が良くてやさしそうなお顔をされていましたが、信心に対する情熱と厳しさ、あの細い体のどこにこんな気迫がひそんでいるのかと思う様なすさまじいものを感じ、何とも言えない魅力があり、私も大きくなったら部隊長の様になりたいと思ったものでした。
経済的に最悪の状態の時で、満足にお米のご飯も食べられず、毎日うどんを食べていましたので、うどんを見るのがいやになっていた私でした。そんな事をどうして知られたのか、ある時、食事をごちそうになり、「清ちゃん、おうどんだっていろいろな作り方、食べ方があるのよ。お野菜を入れて、油でおうどんを炒めて、焼きうどんにして食べるととっても美味しく食べられるのよ。」と教えて下さいました。
ある日、部隊長が四ツ倉にいらっしゃるとの連絡があったので、伴奏付きのオンボロ自転車に乗って駆け付けて行くと、何人かの女子部員を四ツ倉海岸の砂浜につれて行って下さり、「みんなで一緒に歌をうたいましょうよ。この歌は池田先生が大好きな歌なのよ。」と言って鈴をころがした様なきれいな声で、「月の砂漠」や「古城」を歌ってくれた事もありました。この時とった記念の写真は今でも大事に飾ってあります。
私の父は当時、地区部長、兄は男子部の隊長で頑張っておりました。経済的にはとても苦しかったのですが、私が女子部の会合や鼓笛隊の練習に行く交通費は喜んで応援してくれました。そんな家族の応援を知ってか、父や兄に逢うと篤子さんはよく「うちの女子部がいつもお世話に成って居ります。ありがとうございます。」とていねいに挨拶をされておりました。そんな姿に接するたびに、「こんな一高校生の私の為に全力を尽くして激励されているのだ。どんな事があってもこの部隊長につききってがんばってみせるぞ!」と心に固く誓ったものでした。
私は弱虫で何かあるとすぐに泣いて部隊長に指導を受けました。「そんな弱虫でどうするの。もっと強くなりなさい。」と何度、叱咤激励されたかしれません。泣き虫でおかっぱ頭の高校生だった私も、縁あって広野の地に嫁ぎ、四人の学会っ子の恵まれ、今、幸せな日々を送っております。
あんな事も、こんな事もと篤子さんの思い出をたどる度びに涙がとめどもなくあふれて来ます。
草創のころの第一六九部隊員として篤子さんから訓練を受けたことを誇りに思います。あの日の戦いがあったればこそ、今日の自分があるのだと感謝しております。これからもどの様な障魔の嵐が吹きすさぼうと、負ける事なく、広布の道を只ひたすら歩んで行きたいと思っております。
金沢 清子(旧姓 佐藤)