⑩生涯の友 篤子さん

「偲ぶ」追悼文集

篤子さんに初めてお目にかかったのは、高校3年生の夏でした。同級生の油座 ゆ ざ 順子さんが班長さんで、入信したばかりの私と区長の篤子さんに紹介してくださったのでした。

以来、20年間、嬉しい事も悲しい事も相談に乗って下さり、激励をいただき通しの私でした。

女子部時代、どれほど私の成長を期待して下さっていたか、そのまなざしは忘れることができません。なのに、私はいつも篤子さんの期待を裏切ることばかり。

ある時、本部(東京)より、みなと女子部長が来平されたのですが、その時、会合の時間に遅れて出席した私は、女子部長にお目にかかれなかったのです。入信一年目の私にとっては遅れた事に対しての自覚がなかったのです。

篤子さんは涙をこぼしながら、学会精神のなさと、師の心をわかろうとしない不肖の弟子とすごい厳しさで叱咤されたのです。

さすがの私も篤子さんのひざに伏して「ごめんなさい。申し訳ありません。」とワーワー泣き出してしまったのです。

でもこの事を契機に、私はどんな事があっても篤子さんについてゆこう、学会精神を学んでゆこう、信心だけはやりきってゆこうと、固く固く心に誓ったのでした。

学会活動にはいつもご一緒させていただき、いろいろの薫陶くんとうを受けることができました。活動の往復の途々みちみち、篤子さんはこんな話をして下さいました。

「学会青年部は将来の夢を、⑴ 世界をかける大実業家になること、⑵ 世界に名をとどろかす大政治家になること、⑶ 日蓮正宗の御僧侶になること、そして女子部は当然、その奥様になることを理想とすべし、というお話があったのよ。私はそういう人生を歩みたいわ。」とおっしゃったのです。

でも、そのお話を伺っても、私には余りにも遠大えんだいすぎてピンと来ないというのか、他人事の様な思いでお聞きしただけでした。

しかし、その数年後にご結婚なさった篤子さんは、まさにあの日の思いを成就じょうじゅなさったお姿でした。

私は結婚式にご招待いただき、友人として挨拶させていただく機会があり、その時、この思い出のお話をさせて頂いたのでした。

結婚なさってからも何度か小山市にある浄円寺じょうえんじをお訪ねする機会がありました。その度に真心あふれるおもてなしを頂き、恐縮きょうしゅくの限りでした。

私はある時、ぶしつけにも「どうして私の様なものにまでこんなにしてくださるのですか?」とお尋ねしたことがありました。

篤子さんの答えは、「人はどこでいつまたお世話になるかしれませんでしょ?ですから私は出会ったお方には真心をつくすだけですのよ。」と淡々とした言葉が返って来たのでした。

当時、篤子さんは近眼でしたのでメガネを使っておりました。でもメガネは好きではなかったらしく、必要な時にのみかけられておりました。

結婚なさって数年後、寺院の改修が行われ、数百年の歴史をとどめていた本堂も、そして庫裡の方もすっかり建て直され、見事な寺院になりました。そんな折、私は遊佐洋子さんと二人でお訪ねしたのです。

その時、篤子さんはメガネをかけておりましたので、不思議に思っておたづねしましたら、「お客様がお見えになった時、ちり一つ気づかず見過ごしてしまいましたら大変な失礼をしてしまうでしょ。だからかけました。」と言うご返事だったのです。私達は顔を見合わせて、「篤子さんらしいですね。」と感心してしまったものでした。

お訪ねした帰りは必ずハイヤーで小山駅まで送って下さるのです。ハイヤーの運転手さんが私に言葉をかけられて、こう言うのです。

「いや〜、ここの奥様は日本一ですよ。私は創価学会は好きじゃありませんけど、あんなすばらしい人がいるので認識をあらたにしているんですよ・・・・。」と、それはそれはこうして車を利用していただける事は誇りであるとか、最大の喜びであるとか、駅に着くまでの間、自慢話し(?)に終始していたのでした。

ところで私は篤子さんほどお題目を唱えられた方はいないのではないかと思っております。とにかく毅然たる姿勢と鈴のような透き通ったお題目の声は、今でも耳からはなれません。

「御本尊様を揺さぶる様なお題目を唱えなさい。」というのが篤子さんの口ぐせでした。

そうした生命力で会合の席上、お話をなさるのですから、篤子さんの口からほと走る指導は、池田先生の琴線にふれるものばかりで、感動の渦が沸き起こるのは当然だったと思います。

御所の拝し方にしても、本当に身口意しん く いの三業で拝されておりました。

いつもご自分に言いきかせる様に拝しておられた御書は「種種御振舞御書しゅじゅおんふるまいごしょ」でした。「各々我が弟子となのらん人々は  一人も臆しをもはるべからず、親をおもひ・妻子をおもひ、所領をかへりみることなかれ・・・・。」の御文を通して私は厳しく叱られた事がありました。

東京での幹部会や、登山会に出席するよう勧められても、私は即答をいつも避けて、「母に相談します。」「明日まで考えさせて下さい。」という風な姿勢でした。

人材にと成長を期待される篤子さんの心も知らず、いつもそんな調子でしたので、「順子さんはすぐ即答できるのに、あなたはいつもこうなのね。絶対福運を逃しますよ。」以来、私は信心に関しては、腹をえて取り組まねばならない事を学んだのでした。

どんな事にも全力投球で取り組まれる姿勢は、結婚なさってからも少しも変わる事のない篤子さんでした。

それだけにご自身のことはさておき、他人への心配りは私達の想像をはるかに越えるものでした。

ですから篤子さんほど多くの友人を持たれた方も少ないのではないかと思うのです。どんな方をも優しい笑顔と暖かい言葉で応対され、励まされ、包み込んでしまわれた人間的魅力があふれておった篤子さまでした。それだけにどれほど多くの友が心の支えを失った時の、あの悲しみと痛みを味わった事でしょう。

私も今、ようやく篤子さんより多くの薫陶くんとうを受けることのできた一人として、在りし日のひと言ひと言が大切な宝石の如く輝きを増してそこに大きな希望がわき上がって来る思いがするのです。

そして青春時代、篤子さんに巡り会えたことの縁しを不思議に思いつつ、やはり篤子さんは私の生涯の友であり、最高の宝なのだと誇らずにはいられないのです。

 甘南備 かほる(旧姓 渡辺)

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